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セントフランソア郡 (ミズーリ州) : ミニ英和和英辞書
セントフランソア郡 (ミズーリ州)[せんとふらんそあぐん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [ぐん]
 【名詞】 1. country 2. district 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [す, しゅう]
 (n) sandbank

セントフランソア郡 (ミズーリ州) : ウィキペディア日本語版
セントフランソア郡 (ミズーリ州)[せんとふらんそあぐん]

セントフランソア郡()は、アメリカ合衆国ミズーリ州の東部、リード(鉛)・ベルト地域に位置するである。2010年国勢調査での人口は65,359人であり、2000年の55,641人から17.5%増加した〔Quickfacts.census.gov - St. Francois County - accessed 2011-12-06.〕。郡庁所在地ファーミントン市(人口16,240人〔Quickfacts.census.gov - Farmington, Missouri - accessed 2011-12-06.〕)であり、同郡で人口最大の都市でもある。セントフランソア郡は1821年12月19日に組織化され、郡名はセントフランシス川に因んで名付けられた。この川の名前の由来は明らかでないが、アッシジのフランチェスコに因む可能性がある。別の説では1673年にこの地域を探検したイエズス会宣教師ジャック・マルケットが、やはりイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルに因んで名付けたというものである。マルケットは北アメリカの旅に出る前に聖フランシスコ・ザビエルの伝導所で暫く時を過ごしたことがあり、イエズス会なので、フランシスコ会を称えるような名前を付けた可能性は低い〔St. Francois County, Missouri Place Names , Western Historical Manuscript Collection〕。地元の者は英語の「セントフランシス」と発音している。
セントフランソア郡は、セントルイス広域都市圏に属しており、セントルイス市のベッドタウンが幾つかある。
== 歴史 ==
セントフランソア郡となった地域で最初の開拓地は、1796年春に現在のビッグリバーミルズに造られたものであり、アンドリュー・ベイカー、ジョン・アリー、フランシス・スターネイター、ジョン・アンドリューが入った。彼等はそれぞれ1794年に土地登記を行ったが、家族を連れてきたのが1796年だった。アンドリュー・ベイカーのみが家を持ち、他の者はキャンプで生活した。ビッグ川の北岸に大きな家を建てたベイカーは、そこに町を造った。一時期は奴隷を200人所有しており、地域でも最大級に裕福な者だった。ベイカーの子供達は皆結婚して740エーカー (3.0 km2) あった農場を離れた。この農場は納税のために売却され、その後さらに1エーカー当たり30ドルで売られた。同じ年にビッグ川沿いに幾つかの家族が入った。その中にボイス・ブルール・ボトムから来たエリシャ・ベイカーとその息子エリジャー、およびジョセフ・リードがいた。1798年、ソロモン・ジョージがセントフランシス川沿いに入植した最初の者になった。
1805年から1810年、セントフランシス川、ドーラン・クリーク、フラット川に沿って開拓地が発展した。
開拓者が次々と地域に入ってくるようになり、地方政府を設定する必要性が生じた。3人の委員が郡庁所在地を選定するために指名された。
新しいセントフランソア郡は既に存在していたセントジェネビーブ郡ジェファーソン郡ワシントン郡の一部を合わせて設立され、広さは410平方マイル (1,100 km2) あった。サリー・バークス・キースが残した記録には新郡の境界を決めるための方法が記されている。「キャロル・ウィリアムズと他に3人の男性がある地点(おそらくは現在の郡庁舎広場)に立ち、そこから6時まで馬で進むことになった。1人は北、1人は南、1人は東、1人は西に進んだ。彼等が止まったところが境界線になった。このために境界線はいびつな形をしている。」
セントフランソア郡は公式には1821年12月19日に組織化され、まずアレクサンダー・マクネア知事が、ジェイムズ・オースティンを郡長に、ジョージ・マクガハンとジェイムズ・W・スミスを郡政委員に指名した。彼等は1822年2月25日、ジェシー・マーフィーの家で最初の会合を開き、ジョン・D・ピアーズを初代事務官に指名した。最初の巡回裁判所も同じ場所で開かれ、N・B・タッカーが判事に、ジョン・D・ピアーズが事務官に指名された。ヘンリー・ポストン、ジョン・アンドリューズ、ウィリアム・アレクサンダー、ジェイムズ・ホルバートが郡庁所在地を決める委員に指名され、1822年9月22日、D・マーフィーが郡庁のために53エーカー (210,000 m2) の土地を寄付し、その場所が1823年2月27日に承認された。1824年、煉瓦造りの郡庁舎が建設された。その後便利のいい場所に教会と学校が建てられた。新しい住人が加わり、平和と繁栄が続いた。ミズーリ州議会議員に選ばれる市民も出てきた。
1845年頃、アイアンマウンテンとパイロットノブで銑鉄の製造が始まり、セントジェネビーブなど近くにあるミシシッピ川の出荷地点に送られた。これで多くの荷車輸送業者や輸送船、精錬業者などの雇用を確保し、農産物の過剰分を売る市場ができた。1851年、古い丸太造りの監獄に囚人が火を付け、ほとんど全焼した。これは直ぐに石造りの建物に置き換えられた。1850年、古い群庁舎が取り壊され、さらに大きく便利な庁舎が建てられた。
1851年から1852年、アイアンマウンテンからファーミントンを経由してセントジェネビーブまで、板張り道路が建設された。これが交易に新しい刺激となった。プルーイット・アンド・パターソンがファーミントンの東3マイル (5 km)、板張り道路がウルフ・クリークを渡る場所沿いにブルーム溶解炉を建設し、さらに多くの雇用を生んだ。鉄鉱石がアイアンマウンテンから出荷され、鉄にしてセントジェネビーブに運んだ。1858年、バレーフォージと呼ばれたこの溶解炉がシュートー・ハリソン・アンド・バレーの所有となり、監督官のチャールズ・A・パイリーが利益を出して操業したが、1863年機械が取り外され、建物と土地は売却された。
南北戦争が始まったとき、セントフランソア郡は州内の他の郡大半と同様、政治的に分裂し、M・ジェフ・トンプソンの下で兵役に取られないよう逃げ出す者も多かった。トンプソンの部隊はビッグ川に架かるアイアンマウンテン橋を破壊したことがあった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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